蜂蜜ドロップス

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   蜂蜜は嫌いだった
   甘くて…甘ったるすぎて
   不快な気持ちしか湧いてこないから


   『蜂蜜ドロップス』


   しんと静まり返った部屋に、本をめくる小さな音ばかりが響いて。
   夕日がそっと落ちていく眩しさに、阿部は小さく溜息を吐き出した。

   「…あのさぁ、何でそんな離れて座ってるわけ?」

   不意にかけた声に大袈裟な程驚いて、
   三橋は首を左右に振ると気まずそうに視線をさ迷わせる。
   阿部からピリピリとした空気が伝わって来て、
   いてもたってもいられないのだろう。

   「今日全然喋んないじゃん、オマエ」

   少しだけ睨むように言った言葉に、
   まるでグリーンマイルを歩かされている囚人の様な悲愴な顔で首を振る三橋は、
   見ているこちらが心配してしまいそうな程だ。

   「嘘付くなよ…言いたい事があるなら言えよ」
   「あ、ぅ…」

   久しぶりの部活休みの日曜日。
   一週間も前から家に来ないかと誘ったのは阿部だ。
   未だに付き合っているという事実すら恥ずかしいのか、慣れていないのか。
   真っ赤な顔で戸惑いながらも頷いてくれた恋人と、二人きりだと言うのに、
   二人は朝から一言二言しか交わしていない。
   それも全て、阿部が何か質問してもオドオドしたように俯くだけの三橋が何も言ってくれないからだ。
   どうしたのだろうという心配は、段々自分と一緒に居たくないのだろうかという不安になって。
   募る不安は、何故という苛立ちに変わって行く。

   「…何なんだよ!」

   返ってこない返事に苛ついたように強く言ったら。

   「ご、ごめ…っ!」

   途端に大きな両目に涙を浮かべて固まってしまった三橋に、
   自分のした事を後悔したように舌打ちをして近づいた。
   怯えて壁に体を擦り付けて涙を流す三橋の頭を優しく撫でてやる。
   阿部だって、泣かせたり怖がらせたりしたい訳ではないのだ。

   「…っ…う…」
   「悪ぃ。オレが何かしたなら謝るから…」

   だから黙ってる理由を教えて欲しいと呟いた声は、
   精一杯優しく言えたか心配になる程ぶっきらぼうに聞こえて。
   本当は優しく甘えさせてあげたいのに、
   こんな時さえ上手く言えない自分に舌打ちしたくなる。
   耐え切れずに、震える肩を壊れ物を触るように抱きしめた。
   言葉の代わりに自分の気持ちが掌から伝わればいいなんて。
   都合のいい考えかもしれないけれど。

   「何がいけないのか…わかんねぇんだよ」

   言葉がぶっきらぼうな分だけ、愛しい気持ちを込めるように何度も背中を撫でたら。
   そんな阿部の都合のいい願いが伝わったのか、
   何度もしゃくり上げながらも濡れた瞳で三橋が見つめ返して頷いてくれた。
   たったそれだけでひどく嬉しい気持ちになるのは、
   三橋だけは自分の本当の気持ちに気付いてくれているのだと分かるからだ。
   だけどそれは、それだけ阿部から伝わる空気がとても優しい物だからなのだと気付かないのは、
   きっと阿部だけで。

   「阿部…君…」

   本当は三橋よりも、阿部自身が三橋に嫌われる事を怖がっているからこそ、
   ひどく優しい自分に気付かないのかもしれない。
   いつだって阿部は、三橋にだけは素直になろうと努力してくれているのが分かるから。

   「阿部君…怒って…っ…から」

   嫌われたんじゃないかと思ったんだなんて、常に怯えてばかりで何も言えない三橋も、
   少しでも気持ちが阿部に伝わるように言葉にするのだ。
   嫌いになんてなるはずがないと、強気で素直になれない恋人に伝えるように。

   「来た時から…不機嫌、だった…から…っ」

   何かしてしまったと思ったのだと涙を流す三橋を見て、
   思い当たる事があるのか阿部は気まずそうに瞳を反らした。

   「あ〜…それは、違うんだ」

   何とも言いにくそうに口ごもる阿部を見つめる不安な瞳に、
   三橋に怒ってたんじゃないんだ、なんて慌てたように言い訳をして。
   それでも不安に潤む瞳には勝てないという様に溜息を吐いて俯いた。

   「…オレ、さ…蜂蜜嫌いなんだよ」
   「はち…み…つ?」

   小首を傾げる恋人にどうしても知られたく無かった不機嫌の理由。

   「かかってたんだよ…」

   ホットケーキに、なんて真っ赤な顔で言う阿部が怒っていたのは今朝のご飯だ。
   別にホットケーキが嫌いな訳ではない。
   その上に我が物顔でかかっている蜂蜜が気に食わなかったのだ。

   「バターだけで充分だろ?嫌いなんだよ、甘ったるくて」

   三橋を待ち侘びていた浮かれた気持ちが、蜂蜜一つで全て掻き消された気がして。
   そんな朝食を出した母親に不満を打ち明ける事も出来ず、
   そのまま不機嫌な態度を無意識に取っていたらしい。

   「だから、お前のせいじゃねぇよ」
   「蜂蜜…嫌い、なの…?」

   意外な事実を聞かされたように目を見開く視線に耐え切れなくなったように、
   三橋の頭を自分の胸に押し付けて。

   「そーだよ!だから」

   お前は悪くないんだ、なんて真っ赤な顔で言ってやる。
   必死で顔を上げようとする三橋を押さえ付けながら言うのは、
   そんな自分が子供みたいで恥ずかしいからで。
   何よりも、それで恋人を不安にさせてしまったなんて、男としても失格だと思うからだ。

   「…ごめん、な」

   両手で三橋の頭を包み込むように抱きしめて。
   自分の失態を悔やむように小さく囁いた。

   「好き嫌いで不機嫌になるなんて」

   子供みたいだろ、なんてワザと格好つけて。
   笑いながら言ったら、腕の中の三橋が必死に暴れ出したから仕方なく腕をそっと離してやる。
   咄嗟に顔を見られないように反らせたけれど、
   三橋が自分の鞄を手繰り寄せて必死に何かを探しているから。
   不思議そうに見つめて、鞄から取り出された小さなビンに顔を歪ませる。

   「蜂蜜、美味しい、よ?」

   目の前に差し出された小さな小ビンには、いっぱいの蜂蜜ドロップス。
   金色に輝くそれは、夕日が反射してまるで宝石のように綺麗だけれど、
   見るからに甘そうで思わず溜息を吐いてしまう。

   「それはオレに対する嫌がらせか?」

   だからごめんて謝っただろうという言葉が思わず悲壮なものになってしまうのは仕方ないと言えるだろう。
   蓋を開けた瞬間に部屋に溢れる甘い香りに、
   仕返しにしては酷過ぎると思わず泣き言を吐いてしまいそうだ。

   「身体に、いいって…おかあさん、が…」

   小さな指に摘まれた蜂蜜ドロップはとても小さい一粒なのに。
   妙に大きな威圧感を感じる気がするのは阿部の思い込みだろうか。

   「身体にいいってもの程信用しない事にしてるんだ」

   思わず瞳を反らして呟くように言い返してしまう。
   「身体にいいのよ」と差し出される物程ヤバイに決まっているのだ。
   みのさんが言ってたもの、と自慢げに食卓に並べる母親のお陰で、
   嫌と言う程それは身に染みて分かっている。
   お昼の奥様向け番組が好きな彼女は、
   司会者を神のように崇拝して、彼がいいと言った事を何でも実践しようとする悪い癖があるのだ。
   蜂蜜もその一種だと言ってもいい。

   「だって…」

   思わず遠い目で沈みかける夕日を見ていた阿部は。
   困った様に俯いてしまった三橋を不思議そうに見つめた。
   三橋がさっきから何故そんなに蜂蜜を食べさせようとするのか分からないのだ。

   「もんたの信者がここにも…?」

   思わず聞こえない位の小さな声で呟いてしまうのは、
   三橋までが母親と同じ類の人間なのかと疑ってしまうからだ。
   そこまで阿部は追い込まれているらしい。
   意味が分からないというように見つめ返してくる三橋になんでもないと呟いて。
   言葉を促すように背中をそっと撫でてやる。

   「だって…オレ…好き、だから…」

   蜂蜜、と真っ赤な顔で呟く三橋が何を言っているのか分からなくて。

   「よく…食べてる、から…っ!」

   けれど、恥ずかしそうに早口で告げられた言葉に一瞬だけ驚いたように目を見開いて、
   すぐに意味が分かったように嬉しそうに微笑んだ。

   「いつも食べてるから…何だよ?」
   「う、うぅ〜」

   余程自分が言った言葉が恥ずかしかったのだろう。
   今すぐ消えてしまいたいと言わんばかりに小さくなって俯く三橋が愛おしくて仕方がない。

   「キスした時に蜂蜜の味が嫌だって言われたくないから…?」

   それが恋人にキスを嫌がられたくないからだなんて。
   そんな甘い秘密なら、阿部はいくらでも言って欲しいと思う。
   ワザと言っているとしたら随分浅はかに感じる台詞も、
   三橋が真剣に言っているのが分かるからこそ、阿部の胸に染み渡って。

   「馬鹿だな…」

   阿部を少し照れ臭いような幸せな気持ちにしてくれる。
   いつも三橋は阿部の予想もしないような素敵な言葉を、
   どんな愛の言葉より甘く教えてくれるのだ。

   「だって…オレ…っ」

   やはり自分が言った言葉は馬鹿な我が儘で。
   阿部を困らせているだけなのだと涙を流した三橋は。

   「…っ?」

   不意に唇に触れた小さく冷たい感触と、
   それを掻き消す程の熱い阿部の唇の感触に、驚いて目を強くつぶった。

   「…ん…っ」

   絡み合う舌と、その間で転がる蜂蜜ドロップの音が静かな部屋に響き渡って、
   恥ずかしさに耳を塞ぎたくなる。
   口の中のドロップが溶けるのと一緒に、
   自分達の身体も甘く溶けていくような気がした。

   「ん…ぁ…」

   耳に入ってくるせがむような声が自分の物だなんて信じられなくて、
   戸惑ったように瞳を開いた瞬間。

   「ぁ…」

   チュッと音を立てて離された唇に思わず阿部を縋るように見つめてしまう。

   「お前と居たら、好き嫌いもなくなりそう…」

   蜂蜜も旨いもんだな、なんて囁かれて思わず赤くなってしまうのは。
   それが自分のキスと一緒だったから美味しいと言われている事に気付いたからだ。
   頬や額に繰り返されるキスが、甘い香りを漂わせて。
   その匂いに酔いしれた様にうっとりと瞳を閉じたら。

   「なぁ、お前の身体も」

   蜂蜜の味がするのかなと囁くぶっきらぼうで優しい恋人に。
   蜂蜜ドロップスよりも甘くてとろけるベッドに連れ去られてしまった。

   終わり

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   甘すぎる話が書きたかった(笑
   別にアンチみの○んたというわけじゃないですよ?

モドル